春風を吹き込む絵筆

測定材料：【周波数スペクトル報告RA1231-G】 被検者の共鳴時間の特定に失敗。幼少期から被検者が描いた絵画作品に「命を宿す」兆しが現れ始め、次第にその能力に対する制御能力が高まっていった。 被検者の音痕は右腕にあり、共鳴による体の変異は特になし。 被検者は自分の絵画作品に「命を宿す」ことが可能、さらにそれを見る者（人類・残像共に確認済み）の視覚にも影響を与えその認知に干渉する。「命を宿す」能力は2種類に分かれている。軽度の段階では紙などの平面上で移動することのみが可能。重度の段階では描いたものを立体的な形に変え、空間に固定することが可能となる。程度を問わず「命を宿された」ものは皆幻像であり、実在はしない。本測定における幻像の最大影響範囲は274.5平米ほどあり、持続時間は30分28秒ほど。安定する区間の検出に失敗。 被検者と類似するスペクトルは確認できておらず、現時点では共鳴源の特定は不可。 ラベル曲線の波動が明らかな周期性の特徴を示したため、先天性の共鳴者と認定する。

ラベル波形の時間領域は短期間では波動を示したが、長期測定では安定している。よって正常範囲内と判断。現在オーバークロック域は正常範囲内。安定性にやや欠けるため、オーバークロック確率はやや高い。オーバークロックリスクがある。 オーバークロック歴はなし。 定期検診およびメンタルケアを推奨。

女の子が自分の絵を高く掲げて、母親に見せようとしている。アクセサリーの組み合わせに専念している母親はチラッと見て、一瞬だけ笑顔を見せ「あら、折枝、とても素敵だわ」と褒めた。母親の返事を聞いた女の子は、愉しそうに母親に近寄って、「あのね、ここの人物は前のより……」と自分の進歩を紹介しようとする。しかし、その言葉を遮るように、女はクローゼットの前に移動して服を選び始めた。「ええ、よく描けているわね！お客さんが来る前にもっと描きなさい」と誤魔化す。それでも女の子は部屋から出なかった。母親はそれを見て、我慢できずに女の子を外へ押し出した。「画材が足りないなら好きなものを買って構わないわ。うちはどれほど高いものでも買えるからね。さあ、いい子にして絵を描きなさい」と扉を閉じた。折枝は閉ざされた扉を見て、何かを言おうとしたが、結局扉をノックする勇気はなかった。
席を埋め尽くす客人。それを前に、華美な服装に飾られた女の子はドレスの裾を握り締めながら、ロビーの隅の椅子に座って黙り込んでいる。女はそれを見て、貧乏だった過去と、深みのない自分の魂を見たかのように、そばに行って女の子を客人の真ん中に連れていった。天賦の才に恵まれている女の子は彼らにとって、自慢話に取り上げるネタであり、上流階級の列車に乗る切符だ。「うちの折枝はね、まあちょっと絵を描くのが得意ですね。先生を雇う前に美術展に入選したくらい」母親は得意満面の表情を浮かべながら、上流階級の立ち居振る舞いを真似して自分の娘を紹介した。「あら、絵のご注文を希望されるんですか？ええ、もちろんいいですよ！折枝なら一日もかかりません。モチーフは選び放題、この子に任せてください！」折枝はその話を聞いて、母親の服をこっそりと引っ張ったが、母親は彼女を前に押し出して「ほら、折枝、お客さんに見せてあげなさい」と要求した。その言葉は視線を折枝に集め、彼女は引きたくても引けなくなった。初めて筆を取る手が微かに震え、筆を起こすのも久しくできなかった。深夜まで続いた宴会がようやく終わり、屋敷に静寂が戻った。折枝は勇気を振り絞って、昼の絵を持って両親の部屋の前に行った。扉をノックしようとする彼女は、2人の会話を不意に耳にした。
「さっきの絵、40万シェルコインも売れたんだ。これで中止になってた注文も再開できる」
「そういえば、今週末にお客さんが注文した絵はもう用意できた？」
「まだだ。折枝は演劇を見たいって言うから。まったく、あの子はいつも遊ぶことだけ考えて、この家のことちっとも考えてないな」
扉の向こうに立つ折枝はキャンバスに描いた3人家族を見て、自分の手を握りしめた。紙にできた皺が両親の顔を歪ませていく。
「……ごめんなさい」

野外で写生する折枝が自分の絵を見て、まだ何かが足りないなと思った。目の前に広がるは田舎の風景。それを見て、あることを思いつく。周りに人がいないことをきちんと確認し、大きく伸びをした。彼女は両親から言われたことを暫し無視して、素足で芝生に踏み入れた。痒さとひんやりとした触感に自然の生命力を感じる。彼女はそのまま芝生の上を走り回った。自分の立ち居振る舞いが上品かどうかも考えずに、家に恥をかかせるかも考えずに。
ちょうどその時、遠くから人の声がした。
「ちょっと！あなた誰？うちの畑で何してるの？」
それを聞くと、折枝は足元を見て、気まずそうに隣まで走って謝った「ごめんなさい！ごめんなさい！絵を描くために来たんです……畑だと知りませんでした……」
野菜すらも見分けられない慌ただしい様子を見て、女の子は笑い出した「はははっ！別に踏んでも傷まないよ！もう大丈夫だって」彼女はまた鎌を取って野菜を獲り始めた。「絵を描くなんて、珍しいね」折枝は少し躊躇って、気まずそうに「手伝います……」と言った。女の子は顔を上げて「はい、これね！私、もう一つ持ってくる！」と返事した。
折枝は渡された鎌と野菜を交互に見る。女の子の真似をして鎌を握り締め野菜を獲ろうとしたが……女の子に止められた。「違う、違う！その姿勢だと時間かかっちゃうよ。教えたげる！」
日差しの中、2つの小さな姿は支え合いながら、畑の野菜を獲り終えた。高価な服が泥まみれになっても、折枝は気にせずに新しい友達との会話に花を咲かせた。このような会話は彼女にとって楽しく幸せなものだった。
しかし、鋭い責める声が2人の会話に終止符を打った。仏頂面になった母親が近くで2人を睨みつけている。母親が農家の娘を見る目付きはまるで汚物を見る時のそれだった。折枝は取り急いで母親の元へ行って、何度も謝って説明した。母親の叱りで、折枝はまたあの物静かな少女に戻った。

数日後、農家にある絵巻が届いた。娘がそれを開くと、どっと笑い出した。
それに描かれていたのは田舎の風景だけではなく、野菜を獲る2人の姿もあった。
ふと、絵巻に挟まれていた手紙が地面に落ちる。
「この前は挨拶もできなくてすみませんでした！あなたと野菜を獲ることはとても楽しかったです！鎌の重さ、日差しの温度感、それに遅れてやってくる筋肉痛……このような体験ができたおかげで、やっと自分の絵に足りないものに気づきました。これは今まで私自身が最も納得できる作品です！どうぞ受け取ってください！喜んでいただけると嬉しく思います。来週あたりに機会があれば、また一緒に野菜を獲りましょう……もちろん私の両親に隠れて」
最後の一行を読み終えると、女の子の笑顔は困惑の表情に変わった。頭を掻いてつぶやく。
「来週？もう野菜は全部獲ったじゃない。まさかあの子は来週になったら野菜はまだ生えてくると思ってるの……？」

画材屋の前に、折枝が立っている。厳しい表情をした体格のいい店員が何かを書き込んでいるらしい。それを見ると彼女は動揺し後ずさる。
他の店に行こうか……でも、新発売商品を取り扱っているのはこの店だけ……
しばらくの間、店の近くをウロウロし、女の子はようやく決心する。彼女は一枚のシェルコインを取り出し、コイントスをした。
今までのように、表なら店に入る、裏ならまた次回に……
手をゆっくり開いて、その結果を見て、折枝はすぐに手をもう一度握り締めた。
やっぱり三番勝負にしよう……そう自分を説得した。
コインは再び放物線を描いて手の中に落ちる。
……また同じ結果だ。
折枝はコインを握り締めて、深呼吸をして目付きを鋭くさせた。
きっとこれは天の導き。もう逃げられない。
勇気を振り絞って、店に向かって扉を強く押す。その瞬間に響いた来客を知らせる鈴の音は、折枝の緊張を頂点に押し上げた。彼女は視線を地に向けながら、何度も頭の中で練習した注文のセリフを早口で……
「え、えっと！先日発売された絵の具をください！『三緑』を6缶、『三青』を3缶、『大紅』を5缶、『花青』を3缶、『赭石』を3缶、『藤黄』を3缶、『鵞黄』を2缶ください！お願いします！」
堰を切るような勢いで注文の品をすべて言い終え、折枝は安堵の息を長くついて顔を上げた。ちょうどその時、後の部屋から戻ってきた店員と視線を合わせ……
「いらっしゃいませ、何かお探しでしょうか？」
店員は客の動きに少し困惑を感じていたが、それは思っていたより遥かに優しい声だった。
しかし、折枝は……さっきの注文が誰にも伝わっていなかったと気づき、呆然としていた。
「えっと、その……」
「画材をお探しでしょうか？」
「……え、絵の具を……その……」
「ああ、新発売の絵の具ですね。かなり人気がありますよ」
「あっ……うん、やっぱり……」
「まだ在庫はありますよ。ごゆっくりご覧ください」
丁寧かつ温かな接客に、折枝は断り切れず、冷や汗が滲み出る両手を握り締め、棚の前に行った。
しかし、店員の無駄のない紹介に折枝は段々と気を緩める。結局、彼女はしっかりと自分の注文を伝え、さらに店員と絵を描く時の習慣について話し合った。
「『白玉堂』の紙をお使いになっているであれば、こちらの新商品もおすすめですよ」
「なるほど、ちょうどこういうのがほしかったところです。じゃあ、これもください」
すっかり満足した折枝は絵の具がいっぱい入ったバッグを持って店を出た。幾分、自分に自信がついた気さえする。
ちゃんとリラックスしてれば、私だって話せるんだ。今度はコイントスをしなくても大丈夫……かも？

少女は何も教えられないまま、家を追い出された。庭に散らばるゴミを見て、彼女は悟る。自分も捨てられたのだ。
居場所を無くした彼女は、馴染みのある大人を頼ろうとした。しかし、かつて彼女に親切にした人は事情を聞くと、笑顔を消して、街角の古びた旅館の方へ行くよう伝えた。
薄暗く陰湿な廊下に喧嘩の音が響く。ベッドの端に座り込む少女はカビが生えた布団を纏って、不安気にテーブルで塞がれた薄い木製のドアを見つめた。はやく眠りたい。目を開けたら、これはただの悪い夢になるかもしれない。でも同時に、眠るのが怖い。目を閉じたら、ドアが何者かに壊されるかもしれない。
裕福な暮らしからドン底の貧乏に成り下がる。苦痛に満ちた一分一秒は、彼女にとってあまりに長すぎた。
暗い明かりは点滅を繰り返し、借金支払督促状に書かれている数字を揺らす。絵を描く両手は包帯で巻かれているとしても、指先の震えはもう止まらないとしても、丸二日絵を描き続けてきた折枝は筆を止められなかった。
せっかくの大きな注文だから、頑張らないと……
しかし、次第に疲れ切った視界はぼやけていき、キャンバスの風景も歪み始めた。
いつ机の上で眠りに落ちたのかはわからない。そんな折枝の鼓膜を突き破るかのように、激しい叫び声とノックの音が深夜の静寂を引き裂いた。彼女は慌ててドアを開けようとしたら、いつの間にか膝までくる浸水のせいで足を滑らせた。
折枝の部屋に水漏れがあったんだ。彼女はずぶ濡れになっていても、隣部屋の住人たちに謝り続けていた。
骨身にしみる寒さ、薄い壁を貫通する隣の住人の文句、それに何日も描き続けたのに、浸水で台無しになった絵。
それを見て折枝は長いため息をついた。もうこれ以上は持たないと、彼女は一瞬思った。
冷たい水を浴びながら、しばらく動けずにいた。
どれくらい経ったのだろうか。彼女の目に微かな明かりが映る。
それはデバイスの明かりだ。傷だらけの手がそれを操作している。「まずはバルブを閉めて……そして破れたパーツを入れ替える……」
彼女はボロボロになりながらも前を向く。
「これで解決できそう……やってみよう……」
折枝は流れる水を跨いで、問題を解決しに行くのだった。

「こっちの身分に見合った価値を感じる作品じゃないと意味がないんだよね」
「こんな出来じゃあな……5割引なら買うよ」
依頼人の話を反芻しながら、折枝は絵巻を抱え込んで、あてもなくただウロウロしていた。そして、祭りのための建材につまずいて転んだ。メガネより、地面を転がる絵巻を優先して追いかける。しかし、祭りの雑踏が彼女を遮り、何枚かは手の届かない場所に飛んで行ってしまった。もう体も精神も疲れ切っている。折枝は追うのを諦めた。
ああ、もういいや。どうせ出来の悪い作品ばかりで、持っていても仕方がない……
誰かに気に入ってもらえるような作品でもないし……
折枝は力を抜く。懐にあった残りの絵が地面に落ちる。その時、彼女の前に誰かがやって来た。
その人はすべての絵巻と彼女のメガネを集めて拾い上げ、彼女に渡す。
「これ、あなたの作品？筋の通った画風を貫いていて、モチーフの表現も申し分ない。メリハリもちゃんとついている。いい作品だと思う」
慌ててメガネを付けても、仲間たちと共に夜の街に溶け込んでいく黒い服のシルエットしか見えなかった。
誰かが自分の絵を褒めた……
社交のためではなく、金や名誉にも関係がない……ただ、絵そのものを褒めてくれるなんて……
その評価はちゃんと絵を見て自分の意図を理解してから発したものだ。彼女の心に暗雲を貫く一縷の光が差し込んだ気がした。
彼女はずっとあの人が行った方向を向いて、絵巻を抱きしめた。

「あの……こんにちは……」
ずっと胸の奥で大事に憶えていたあの声が急に響く。目の前の景色に意識を奪われていた折枝は突然のことに驚いた。
「落ち着いて。悪意はなかった」
あの時微かに見た黒い服のシルエットが鮮明になる。
金色の瞳を見て、あの夜のことを思い返した。優しく笑いながら彼女の前にしゃがんでいた人。まるで暖かい日差しのように自分を包んでくれて、自分を疑う渦から引っ張り出してくれた人。
今、それと同じ温もりが胸に溢れる。モノクロームだった墨と紙の世界が、色づき始めた。